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★書評★


芹沢俊介 編

『引きこもり狩り
アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判
書評

〈書評誌〉『精神医療』48号[第4次] 2007年10月10日
〈書評者〉松原恒也 (元陽和病院看護師)


少なからぬ若者に引きこもるということが、なぜ生じているのだろう? 若者たちに何が生じているのだろう? こういうごく当たり前の問いを持たずに、引きこもることを問題視し、不健全、未熟、甘えている、犯罪を犯しやすい、病気だなどと考える人々がいて、「善意」で助ける、更正させるといって引きこもる人を引き出したり、鍛えたり、治療したりしているという。多くの若者がこうした「善意」による支援=介入によって、さらに傷つき、追いつめられ、果ては死に至らしめられるものさえ出ている。本書は、こうした考えに基づいた活動が引き起こした二つの事件を報告、考察、批判し、支援というあり方自体と支援の動機である「善意」自体を問うている。

 本書の編者芹沢俊介氏は、本誌の2001年no.22特集「ひきこもり」の鼎談で、ひきこもりには三段階の時期があること、各時期に重要な意味があることを明らかにした。さらに、学校や社会や親からだけでなく、社会的な規範(価値観)を取り込んでいる自分による侵襲から自分をまもる場所と十分な期間が必要で、その場所を「自己領域」、その時期を「滞在期」だとした。翌2002年『引きこもるという情熱』で、高度な消費社会にあっては誰もがその人なりの自己領域を確保しており、自己領域から出たり入ったりすることで自己確認をし、そのことが孤立した心の危機をしのぐ方法になっていて、自己領域を確保できないと引きこもりになる可能性があるという考察を示し、しっかり自己領域を確保する「正しい引きこもり」という視点を提示した。また、『ついていく父親』や『母という暴力』で、子どもを生きにくくし追いつめてしまう父や母のありかたを「教育家族」ということばで表し、教育的な価値観に染まった(学校化した)家族と地域を批判した。また、氏は、不登校、いじめ、引きこもりが相互に深い関係があることについても早くから考察を深めていて、高度消費社会と子どもと学校、親、地域の関係を考察してきた。

 著者の一人は、児童青年精神医学を専門とする高岡健氏だ。かつて不登校の子どもを「情緒障害児」だ、登校拒否=国民病だとし、不登校の子どもと親に登校するか入院するかと迫った精神科医・故稲村博に対して、高岡氏は、不登校は病気ではない、病気として治療の対象にしてはならないと批判し、稲村の説や対処の仕方の無効と有害さを明らかにし否定した。高岡氏は、2003年の『引きこもりを恐れず』や『孤立を恐れるな!もう一つの「十七歳論」』などで不登校・引きこもりを全面的に肯定し、集団からの離脱を積極的に支持し〈集団への同化〉を批判した。『人格障害論の虚像』『心の病はこうしてつくられる』などで、子どもたちや若者たちを精神障害だとしてしまう動向を批判してきた。

 この二人の論者は、一貫して登校拒否・不登校・引きこもりを肯定してきた。登校拒否・不登校・引きこもりという現象を、単なる個人の現象に限定して非行や病気であると決めつけて、更正や治療の対象とする考えに批判を加えた。子どもや若者個人に現れた現象は、社会の変化に対応できない学校が集団行動を強要するということと、地域と家族に生じてきた学校化という事態が、子どもや若者に与えた息苦しさを反映したものであり、けっして個人の脳の病気ややる気や道徳教育や倫理観の欠如の問題ではないと論じてきた。子どもや若者が生きにくさを感じ、自分を存在の危機からまもろうとする結果が登校拒否・不登校や引きこもりであり、必然かつ正当な権利として保証されなければならないといってきた。二人は、いじめについても深い考察と提言をしてきた。不登校・引きこもりの大きな誘因のひとつである〈いじめに〉は、見た目には加害者対被害者という対立としてあらわれているが、子どもたちはどちらも集団への強い同化圧力を等しく被っていて、〈集団への同化〉に違和感を感じている一方で、集団からはじかれて一人になることを恐れ、一人をターゲットにして自分を集団に一体化することによって自分を守りたいというこころの働きが子どもたちに生みだされているためにいじめをしてしまうとしている。集団から排除され孤立させられることを恐れ、集団に同化しようとする心性は、〈集団への同化〉を強要する学校という空間で生みだされ、学校化された地域や家族のなかで強化されるという。工業化社会という生産を中心とする社会から70年代以降の高度消費社会への変化に無意識に対応している子どもにとって、時代遅れな〈集団への同化〉を強く求め集団行動を求める学校という空間が、合わなくなり、その息苦しさのなかで集団からの孤立を恐れる子どもが、いじめという行動をとるようになってきたといっている。いじめがどこの学校・地域にもみられるようになり、生きづらい空間である学校はより一層生きづらさを増し、不登校を生みだし、自殺が頻発し、引きこもりを生みだしてきた。

 不登校や引きこもりをしている児童や若者は、甘えているわけでも、病気なのでも、不健康なのでもない。時代遅れという認識のないまま集団に同化することを強要する学校に毎日通っていると、自分が自分らしく生きることができないと感じてしまう。しかし同時に、社会の規範(学校へは必ず行かなくてはならない、学校が終了したら社会に出て働かなくてはならない)に苦しんでもいる。学校や家族や社会からの自分への非難から距離をとって避難し自室にこもるのだが、さらに自分のなかに浸透している社会の規範が自分を責める。したがって、親や教師や周囲の登校刺激や社会への引き出し支援は、自分らしく生きたい自分を批判する自分(社会的自己)に悩んでいる本人への否定になり、追いつめることになる。芹沢氏や高岡氏が不登校や引きこもりを肯定するということは、〈集団への同化〉を強要するいかなる働きかけも、本人を否定し苦しめ追いつめるだけで、より大きな困難を背負わせるだけだという子どもたちの現実を見つめているからだ。

 引き出すという支援をするということは、支援という言葉によって正しいこと、立派なこと、奇特なことと見なされるのだろうか。「善意」で支援している人やその賛同者を批判することは難しい。しかし、本書で、芹沢氏は、穏和な口調の氏にしては大変珍しく激しい言葉で「善意の道は地獄へ通ずる」といい、高岡氏は「引きこもり狩り」というきつい言葉で「善意」の支援者を批判している。なぜか。アイ・メンタルスクールが若者を死に至らしめた事件が発生したが、加害の当事者は「悪意」がなかったと自分の行為を正当化していることと、加害の当事者を多くの若者を救った、他の誰が若者を引き受けたかと擁護する者がいること。稲村博の説に則って1970年代末から「情緒障害児更正施設」が次々につくられ有名な戸塚ヨットスクールでの4人もの死亡事件などが発生し、それから20年以上たって90年代末に稲村と同じようにその弟子斉藤環医師によって「社会的ひきこもり」という言葉が流布され、ふたたび引き出し支援をうたう同様の施設が生まれ同様の事件が繰り返され、いまも多くの若者がこうした引き出し「支援」という介入・強制・暴力によって苦しんでいるからだろう。

 登校を促したり、社会へ引き出そうとする支援者は、芹沢氏や高岡氏が考察した学校と親と地域、社会について一体何を考えているのだろう。不登校・引きこもりをその個人の問題として考えていて、学校や社会を考察の対象としていない。登校すること社会へ出ることについてはなんの疑いもなく正しく当然のこととして前提している。それ故、不登校や引きこもりの当人が感じ悩んでいることを先入観を持たずに十分に耳を澄まして聴き、なぜ不登校・引きこもりをしているかを聴いて考えるという必須の努力もしていない。高度消費社会以前の近代化に向かう社会や工業化社会にこそ適応していた集団行動や集団への適応を重視した学校と社会にそだった自分たちの常識が、通用しなくなったことに気づかず、疑いもない正しい生き方として感じている者は、そうした生き方を倫理的で道徳的な生き方と感じている。自分の価値判断を基底にあって形成してきた時代と現代の相違に無自覚で、子どもたちに何が生じているかを考えず、子どもや若者にその価値判断を「善意」で押しつけているということに気づいていない。だからこそ正しい登校や就業ができるようにしてあげる(たい)という「善意」が強く働いてしまう。「善意」が意識されると始末が悪い。「善意」で、という位置に立つと、批判は耳に入らなくなる。こんなにいいことをしているのに何を言いがかりをつけるのだ、という心理が働く。自分から「善」いことを相手に与えるという一方的で批判が許されない不可侵の聖域=位置に自分をおくことになるからだ。あなたのためにこんなに一所懸命しているのになぜわからないのか。わかるようにさせなくては。是が非でも引き出さなければ自分の善意が否定される、引き出して正しさを証明してみせる。自分がしなければ一体誰がするのか。こうして傲慢な意識が強化され、支援(善意)が拒否されると激しい怒りが生じて、支援の手段がエスカレートし、正当化されて暴力性を強めるのではないか。こうして「善意の道は地獄へ通ずる」ことになる。しかもこうした支援は、「善意」をもって正しい支援をする側が、その支援の目標(支援される側のあるべき姿)や内容やあり方を決定する。芹沢氏は、支援は支援される側の必要性を軸にしなければならないといっている。支援のあり方として氏は、

   ……〈する〉ことの留保において、自分を三百六〇度こどもに開いておくということ、自分を子どもに差し出しておくということである。自己を差し出している状態におくことである。差し出していれば、子どもは自分の必要性に応じて、差し出されている対象を受けとめ手として使用することができる。/なにもしないということが〈する〉ということなのだという逆説をここからとり出すことができる。/さらにもう一つの思想が内蔵されている。それは〈いる〉ということの力である。いること、居続けることのもたらす信頼性である。そのような信頼性があってはじめて支援は支援としてその実質を満たす条件が整うのである。

と記している。

 数年前まで私は精神医療の現場の看護師だった。芹沢氏は医療は・心理・教育・福祉などの従事者やボランティアや支援者までも含めて、その支援と「善意」を問うている。その意味で私もかつて看護師としての支援と「善意」と、山間過疎地域に生きる今を問われている。年金生活者として暮らす私は、地域の人が支援を必要としていると判断する前に、本当に必要としているかどうかを考えたい。いや、その前に地域でともに暮らし、そば(近隣に)に〈いる〉ことによって必要に応じて受けとめ手として使いたくなるような位置にいるようにできたらと思う。本書によってそんなことを考えさせてもらえた。

 

芹沢俊介氏の本はこちら

『引きこもり狩り
アイ・メンタルスクール寮生死亡事件/長田塾裁判』

 

 

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